まち日記(旅と仕事と日々ごはん_時々走り)

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学際的であること

ジャーナリズムというのはそもそもアカデミズムとは相容れないものなのだろうかなーと思うことがある。リサーチャーの求人募集に対してやってきた人物は、ジャーナリストだった。常にリサーチャーの手が足りない、ということで、これまでも何人か、ジャーナリストの紹介を受けてきたが、なんとなく本能的に避けてきていた理由が、彼と話してみて少し形になってきた。
えーと、あまり精緻に定義づけやらこれまでおそらく連綿と繰り返されてきたであろうアカデミズムとジャーナリズムの線引き論争などに首を突っ込む時間がないので、直感的に思うのは、ジャーナリストの、なんというか学際的な切り込み方が、アカデミズムの城の中にいる人に笑顔で迎えられることって、おそらく難しかったりするんじゃないだろうかという感じがする。
世の中はもちろん、経済「学」や政治「学」によって回っているわけではなくて、理不尽で予測不可能な、人間の営みによって回っているわけで、ほとんどの事象は、ひとつの学究分野単独で分析することなんてできないものだ。
でもなぁ、だからって、なんとなく自分の思うがままに、経済学的視点や心理学的視点をランダムに持ち込まれて分析されるのって、私は別にアカデミズムの城の中に入れないような中途半端なリサーチャーではあるものの、ちょっとどういうわけか、抵抗があるような感じがする。あまりうまく言えないけど。
で、彼はどことなく、そういう学際的な自分のビヘイビアの正しさを疑ったこともないような、そんな感じがしたのだった。書き物も読ませてもらった。確かに面白く読んだ、でもそれだけだ。
ワタシ的には、「この人本当によく調べてるな」という感想を引き出すのがアカデミズムで、「この人本当に面白い考え方するな」という感想を引き出すのがジャーナリズム、っていう感じがする。で、もちろん、個人的には、私生活的には後者のほうが好きだし、世の営みの本質をつかむ態度として正しいとは思う。
でも、多くのエリート層にある人たちは、後者のようなことをできる、あるいはそうする資格があるのは自分だけだと思っていて、相手には前者たることを求める。そして、私が今属している世界は、前者たることを主に求めらる場所だ。そのことを察した上で、エリート意識の塊のような連中を、「それでも」ちゃんとうならせる場面を自分で勝ち取っていく、そのあたりのカンドコロは、なかなかに難しいものがある。ある意味、プライドが邪魔してはダメという面がある。だからこそ、こんなところでうだうだ書いてるんだけどさあ。