まち日記(旅と仕事と日々ごはん_時々走り)

ダイアリーから移行しました

浦島な私が帰国しましたよ


3月11日、出かける前にブログに一言だけ書いてる自分。今日も午前様帰りだろうなー、というコメントは奇しくも別の形で本当になってしまった。


11日、職場で会議中に地震に遭遇。皆で机の下にもぐって、長く続く揺れに、これはただごとではない、と思い、震源地では何が起きているのだろう、と、とっさにそう考えた。そして、東京はなんとか大丈夫そうなんだな、とも。


期末に向けてのはずせない、17時からの打合せには、職場から徒歩で往復8キロほど歩いて行ってきた。普段時々一緒に皇居の周りを走っている同僚と一緒に。その時間にすでにタクシーはまったくつかまらない状況だった。電話もつながらない。ようやく職場に戻ると、他の打合せで神谷町方面に出かけていたチームも戻っていて、私たちを心配していた。


まだ周囲の状況が見えない中、仕事は山積、電車は動いていないようなので、24時頃まで仕事していた。早めに電車が動いた路線沿線に住む人から順に帰宅していった。私も24時過ぎに職場を出て、高田馬場で夫と落ちあい、西武新宿線で帰宅した。午前2時前。


次の日、12日は11時頃には職場に出た。出張は結局予定通りに決行することにした。あれこれ準備で帰路についたのは22時過ぎ。阿佐ヶ谷で一杯飲んで帰宅。


13日は10時過ぎの飛行機。
5時起きで、6時からJRにNEXの運転状況を確認しようとするも、話し中で電話はまったくつながらない。ネットでの情報提供もない。勘弁してよ、と言いたくなる。リムジンも運休。頼みの綱は京成線だけ。スカイライナーが動いているようで、ネットからの予約もできる。日暮里駅での誘導も案内もスムーズで、京成線のイメージが大きくアップした。


行った先々でもちろん震災、いや、福島の状況を聞かれ続けた。
ミーティングの合間にホテルに戻ってはNHKニュースを見る。ホテルに置かれている日経新聞や、現地の新聞も読んだ。最新の状況がどうなっているのか、頭に叩き込んだ上でまたミーティング。
被害の大きさ、発電所の事故の深刻さが日を増すごとに明らかになる。直接に被災した人の状況を思うと、あまりにかけ離れたところにいる自分がなんだか現実味がないような感じだ。


日本では、職場の皆がクライアントからの要請に応えて情報を出すべく必死に頑張っている様子がメールから伝わってくる。期末の報告書作成と、来年度の入札と、あらゆることが重なっている中で、この事態だ。
こんな時でも、まったくこちらの立場を配慮してくれない、自分の都合だけの要望に終始するクライアントと、可能な範囲で柔軟に対応してくれようとするクライアントと、人もいろいろ、組織もいろいろだなぁと考えさせられた。掛けあってみたけどダメでした、というメールを読むと、やっぱりちょっと切なかった。


2カ国を回って、ようやく昨日の朝、日本に戻った。JRも京成も、不通ではないが、早い便はない。リムジンに乗り込んでこんこんとまた眠る。新宿からは間引き運転の総武線で帰宅。東南アジアに行っていたので、寒さが少しつらかったが、ようやく自宅にたどり着いた。


昼前に会社に電話。とにかく今日は無理せず少し休めと言われ、自宅で作業することにする。
どうしても、というメールにだけ回答し、〆切迫った原稿書きという日常に戻る。午後、一休みと思い一度横になったら、それきり1時間半も起きられなかった。疲れてるんだ、とようやく自覚する。徐々にだるさが身体の表面に出てくる感じ。


帰宅した夫と連れ立って近所のおおはまへ。美味しい食事をしてようやく少し身体に力が戻ってきた。

 
 


明日は職場に出なくては。街はコンビニが明かりを落としていて静かな感じ。煌々と明るくなくても、これはこれで悪くないんだな、と思ったりして。


…と、こんな日々を送ってました。今日はかなり元気を取り戻しました。


韓国、中国、台湾、スペイン、いろいろな国に住む友人、仲間からお見舞いの連絡をもらい、心配してくれてありがたかったです。日本は大丈夫。日本人は大丈夫。もちろん、私も、少し疲れているけど、全然大丈夫。