まち日記(旅と仕事と日々ごはん_時々走り)

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「韓国」が「日本」で「売る」ということ

昨日は何か月ぶりで、取引先の韓国人マネージャーと夕食。彼はどちらかというと対エンドユーザーサービスを売っているつもりで、おそらく世界的にも、彼の売っているものは、本来エンドユーザーサービスのカテゴリに入るものだと思うが、日本では、それは、金を出す者、あるいは購買を決定する者に安心感を売り、その者の言うがままに、一方的に奉仕するという行為を売ることなのかもしれない、と思ってしまった。
ものを売るときに、それを使う人と金を出す人が異なることはよくあることで、ペットフードはペットが消費するが、金を出したり購買を決定したりするのは飼い主で、売ることを考えるなら、エンドユーザーたるペットの満足感を高めるのではなくて、購買決定者の満足感を高めることが必要だ。
いやいや、ペットの健康が大事でしょうが、というのは一種の正論だけども、エンドユーザーの満足感よりも、購買決定者の満足感が優先するのはもう、動かしようがない。購買決定者の満足感が上がる仕組みは、そうそう簡単には変えられない。手がつけられないとは言わないが、魔法をかけない限り無理で、正論を押し付けてもだめなんだよなぁ、と、辛い鶏鍋をつつきながら、彼の話を聞いていてそう思う。増して彼の売っているものは、韓国流のサービス。安心感という意味では、残念ながら、大・大ハンデを最初から負っていることになる。韓国の製品、ということに対する作り上げられたイメージも、残念ながら、何かの魔法をかけない限り簡単には変わらない。
簡単に変わらないものを、どう変えていくのか、じゃぁ意外にころっと簡単に変わるものはなんなのか、を見極めてそこを突いていくにはどうしたらいいのか、あたりを突き詰めずに、このペットフードは、韓国の病院でペット実験をして食べさせたら犬がいちばん喜んで食べたんだ、なんて日本でいくら叫んだって、だめなのよ。