まち日記(旅と仕事と日々ごはん_時々走り)

ダイアリーから移行しました

ハイリスク・ノーリターン

昨日の夜は、研究者としての道を、いろいろなものに追い詰められつつも続けている友人が関西から出てきたので、時間を合わせてメシを食った。

彼女にそもそも研究者としての適性があるのかないのか、って言われると、じゃぁ研究者としての適性というものが、たとえば学問の分野を超えて普遍的にあるのかどうかわからないだけに、なんともいえないなぁという議論なのだけども、たとえば全国で、その分野の教師および研究者の需要がどれほどあって、そのポストを得たいと思っている競合がどれほど存在していて、彼女自身はその競争の中でどんな立場にあって、強みと弱みは何か、なんていう分析を行ったとしたら、ポスドク問題が浮上しているほどの日本であるからして、間違いなく供給超過だろうと思うし、加えて少なくとも年齢的にも相当に不利があるようなそんな気がする。

また、経済的に相当に厳しい中で研究活動を続けるしかない、という様子も浮かび上がる。彼女の話を聞いていると、その、教職なり研究職なりに採用されるまでにクリアすべき研究論文の数だとか、調査研究への参加であるとか、そういうハードルを、自分なり自分が所属する研究室の取ってくる研究用の助成だったり奨学金だったりというリソースを使って、ほうほうの体でどうにか超えていくという、そういう話だったりするようだ。
しかも、彼女のような研究テーマの場合、1つのテーマに対して払われる奨学金なるものは個人奨学金としては50万円だったり100万円だったりするわけで、それは研究のために使える費用というよりは、彼女が生きていくために必要な最低限の費用として使われてしまうのだろうなぁというくらいに、経済的には他になにも後ろ盾がなかったりする。
その、奨学金なり助成なりの仕組みを巧く活用する教授、できない教授、する気のない教授、等々師匠の嗜好性も様々で、自分は教授だから身分も保証されていれば一定の給与も保障されていていいけれど、研究所の生徒というのは、下手をすればただ働きでしかも引き立ててもらえるとは限らないという危うい立場にある。

昨日聞いてびっくりしたのは、そんな研究者を支えるべき奨学金制度もまた、思った以上に成果主義というかハイリスクであるということ。
そりゃぁそういう制度を使ったことも含め、自分の研究者生活を支えるための金銭的ポートフォリオをそんな風に組んだ彼女の自己責任といえば自己責任だが、なんだ?学校を退学(ドクターを無事取得した場合にはそうではないのかどうかは、聞き逃した)してから1〜2年以内に、その奨学金制度において定められた一定レベルの教育機関に正規のファカルティとして就職できなかった場合には、奨学金は全額返還しなくてはならなくて、その金額はすでに彼女の場合700万円程度に達しているという。それはある種の自己破産ではないかと、私は正直口をあんぐりとあけてしまった。

で、ハイリターンが望めるかというと、特に彼女の分野での金銭的一発逆転というのは残念ながらどう逆立ちしてもありえない。テクノロジー分野であれば一発逆転はありうるが、世の中にはそうでない学問というのは山のようにある。哲学だったり文学だったり経済学だったりという「士業」とは関わりのない文系はおおよそそうだろうと思う。研究者兼作家だったり政治家だったりジャーナリストだったりする人の存在はこの際誤差の範囲だ。

そんな道を歩むのはやめなよ、とは言い難いものはあるし、彼女のアイデンティティの大部分を、研究者としての自分、が支配していることは承知している。出もなぁ、経済的に破綻していていいのだろうか。こういう生活って、いわば歌手や俳優を目指すのと同じくらい、もしかしたらハイリスクでノーリターンに限りなく近いのではなかろうか。

彼女のやっている研究、残念ながら社会的意義がそれほどあるとは私は思わない。頼むからそんな分野の研究助成に税金など使ってくれるな、と言いたいほどの分野だが、だからといって淘汰されるべき分野なのかどうかといわれると、完全淘汰は困る。教養にかかわることだからだ。適性規模を維持するためには、おそらくもっときっちりとしてある意味逃げ場のない競争と退出の仕組み、すなわち、あぁ自分はこの世界での競争に勝てない、退出して他の分野、あるいは他の経済的活動へと舵を切ろう、と思えるような厳しく、かつわかりやすい、つまり、きっちりあきらめをつけて早々に道筋を切り替えやすい、そんな仕組みがおそらく必要なんだろうなぁと思う。

夢や幻想では、研究者活動は続かない、そう強く感じさせられた。